それでも余一氏は元気に作業中。
一瞬の晴れ間などで気温が上昇すると屋根から雪解け水が滴ってきます。
それを彼はケチ臭く利用するのです。
土埃で汚くなった廃材を、この屋根からの水滴ラインに合わせて配置。
このように傾斜をつけて土埃を水の力で流します。
こんなの濡れ雑巾で拭けばいいような気がしますが。
それじゃさ、俺がその時間、
濡れ雑巾で廃材を拭かなきゃならないじゃないか。
これの良さは、
廃材がキレイになるまで時間がかかるけど、
俺がそのキレイにする仕事をしなくて済むってこと。
この間に俺は別の木材を丸ノコで切ってられる。
自然のものってそういう力があるよね。
植物や動物だけでなく、水や火も。
俺がちょっとキッカケを設定するだけで、あとは勝手にやってくれる。
要は結果が出るのを待てるかどうかかな。
春に種を蒔けば、夏には実になったり、
森に罠を仕掛けておけば、いつかそこにウサギがかかったり…
水は正直に高いところから、低いところへ進むし、
火もまたありのままに、燃やせるものを燃やして熱や光を生む。
それを素直に利用すればするほど、今の世じゃ「原始的」って言われる。
ミネラルウォーターサーバーを高層ビルの一室で飲むのが「イケテル」。
だけどその「原始的」ほどラクなことってないよなって思う。
いろいろ勝手にやってくれる自然に仕事を任せれる。
都会ってのはその自然を排除しちゃうから、
その「自然界の自動的法則」を利用できないわけ。
だからそれを「自然界の自動的法則」の代わりに、
「人」や「人工物」がやらなければいけない。
お金ってヤツでもって、それらの動機付けをし、仕事をさせる。
んで電気やら石油やらのエネルギーをグイグイ使う。
一見ラクに見えるんだよ、都会って。
だけどそのラクを生み出すまでにどんだけ資源エネルギーを使い、
必要以上のモノを生産供給しながら、体や心を損なうんだろうね。
ラクを生み出すためにたくさんのムダがある。
その点、この雪解け水で木の板を洗うこの方法、ムダがないでしょ。
木の板についている土埃が、水によってまた土に還る。
そこに雑巾が入るだけでちょっと摩擦があるよね。
焦っちゃうと雑巾を使う。
でも結果を焦らなければ、ムダがないラクができるんだよね。
洗濯機で洗う、それ自体はラクなんだけど、
その人工的な機械を手に入れるためと、その電気エネルギーを得るために、
どんだけ洗濯と関係ない別の仕事をしなければならないんだろうかね。
本来は「洗濯をする」のが目的であり、仕事だったはずだ。
その本質を放り出してしまうと、
洗濯をこの機械にさせるためにお金を稼ぐことが、目的になり、仕事になる。
なんだかチグハグなことになってるって思わないかい。
と、新年早々のマシンガントーク。
よくもまぁこのちょっとした事に対して弁が振るえるものです。
こういう人からのクレームだけは頂きたくないです。
そんなことを語りながらこの日はベニヤ板の表面を削る作業。
サンダーというヤスリ的な作業ができる工具を使います。
何で汚れたのか、黒ずんだベニヤ板。
すると、このように表面が薄く削られて、なんとも味がある風合いに。
もともとの汚れが融合し、アンティーク感が出ます。
なるほど廃材を使うメリットが金銭面以外にもありますね。
そんなこんなでこうして作業を進めていきましたらすっかり夕方。
気温もグングン下がります。
あの土汚れを落とそうとしていた木板に滴った水滴は見事に凍り付き、
汚れは落ちたものの、今度は氷に覆われるという事態に。
これはこれで水の素直な性質だよね…
余一氏、見事にミスっているではありませんか。
私もまたその凍った木板を撮るのをミスりました。
人がミスるっていうのも自然の摂理だからね。
それなのにさ、カチカチの人工物の中で仕事して、
いざ何かやらかせばそのミスをアホみたいに責められるんだよねぇ。
なんだかこの日は面白かったです。