20080714

余一氏との某会話

しかし、あれだね太田くん。
“信じる”ってどういうことなのかね。

えーと「真実だと思う」ってことですかね。
どうかしたんですか。

まぁ数年前のことだよ。
俺の家族は初めて俺がダンサーだと知った。
そのとき家族はこんな感じのことを言ったんだ。

「そんなことやってどうなる。
 いつまでも遊んでないでちゃんとしたらどうだ」

ってね。
踊り自体を見てもいないのにね。
でもさらにその数年後。
オイラの記事が某新聞のほぼ一面にまるまる掲載されたわけ。
そしたら家族の態度はコロリと変わった。
そのとき思ったね。

俺の家族が信じているのは俺ではない。
あの紙切れに過ぎない新聞ってヤツなんだ。

でもそういうもんなんじゃないですかね。
社会的にある程度評価されりゃ家族も安心みたいな。

じゃああれかい、
社会的に評価されりゃ真実で、評価されなければ偽物、
新聞に載るものは真実で、載らないものは偽物ってことかい。
身近な人を信じず、顔も知らない人が書いた記事を信じる。
俺は何か違うと思うな。

たしかに余一氏は世の中の情報に興味がないというか、
ほとんど信じませんよね。
テレビもろくに見ないし。

信じるに値するのはね、
自分の内側から沸き起こる感覚だけだね。
それに情報の氾濫は感覚を鈍らせちゃう。
知識だけが先行するし。

なるほど。
でもそれって自分しか信じてないってことですよね。

うーん、そうとも言えるかも。
例えば俺は君を信じてるんじゃない。
正確には、

「君は信用できるヤツだ」

と感じた俺の感覚を信じてる。
君自体は全く信じてないよ、ハハハ。

ちょっとショックですが一理あるかも。
少々ややこしい理屈ですが。

だから君が実は極悪人だったとしても俺は全く恨まない。
恨むべきはそれに気が付かなかった自分の感覚だよね。

真実とは何か。
今日はそれに余一氏との対談で迫ってみました。
たまにはこういうアカデミックな哲学もいいかなと。